2025/03/07

自分の外側に正解を求め続ける旅に終わりは来ない



「外側の正解を求め続ける世界」
という記事がある

コーチングをしていく上でもとても大事な考え方だと思う
コーチングする自分自身にとっても
プレイヤーにとっても

inputしてもinputしても
「もっと他にinputすべきことがあるんじゃないか」
「自分が知っていることの他にもっとよい正解があるんじゃないか」
っていう強迫観念にかられることがある

「無知の知」というソクラテスの言葉があるが
自分には知らないことがあるという自覚は人生を生きていく上でとても大事なこと

「自分はもう多くのことを知っている」
「自分はもういろんなことができるようになっている」
と思った瞬間にそこで成長が止まってしまうって現象は
経験を積めば積むほど
知識量が増えれば増えるほど
起こる可能性が高くなる

しかし
時にこの自分の外側に正解を求める志向は自己肯定感を下げてしまうことがある
競技スポーツに臨むアスリートにとって
この志向は勝負の瞬間に「自分の中にあるもの」ではなく
「自分の外にあるもの」に頼ってしまう危うさを孕んでいる

競技の場に立ったアスリートは
勝負の瞬間に他者の手助けを受けることができない
だからどんな結果になろうとも
自分自身の中にあるもので勝負と向き合うしかない
それが競技スポーツの厳しさ

今その瞬間において自分自身の中にあるものを信じ切ることができなければ
無意識のうちに
「逃げる」
「他者のアイデアで動く」ことで責任を回避する
のいずれかの方策で「可能性の中に生き続ける」選択をし
自尊心を保とうとする

inputをすることで知的理解を高め
反復することで遂行力を高め
勝負の瞬間は覚悟を決めてoutputする
どんな結果が出ようとも結果は自分が引き受ける
そして次の成長に向けてまたinputしていく

コーチングする自分自身も
プレイヤーも
そんなそんな志向がもてるように自分自身と向き合っていきたいと思う

そして
人生を生きていく上でも

2025/03/05

階段登ったら後ろが崩れてた……コーチングのあるある

右肩上がりって言葉がある
「成長」のメタファーでもある

コーチングも右肩上がりに成長していってほしいと思う
しかし基本的に階段方式でプログラムを組んでも
やっと登ったと思った瞬間に
登った先から崩れてるのが現実

ルパン三世や未来少年コナンに崩れる橋を渡ってるシーンがあったが
まさにあれっ^^;
ほぼコーチの自己満足の世界

知的な理解と体が了解することの違いか…
蓄積は思ってる以上に難しい

そうなるとやはり右肩上がりよりも螺旋で考えた方がいいんだろう
それでも同じ水準でぐるぐる回ってても成長はないので
元に戻った時には質的に改善しているスパイラルアップのイメージが一番いい

垂直方向の質的成長と右方向の量的成長の両面からスパイラルアップをイメージすると
図のようになる

最終的な目標像を「方向性」と「水準」の2面から設定し
現状との差を問題点として正確に評価し
パフォーマンス構造を元に原因と課題を設定し
「プログラム」に落とし込んでいく

どの部分が欠けても良いコーチングににはならないが
進むべき方向が頓珍漢でも成長は引き出せないし
目指す水準が高すぎても低すぎてもうまくいかない

目の前の現象を正確に観察して
目標との差を正確に評価する現状評価は極めて難しい
起こっている問題点と
起こっていない問題点の
2つの視点を以前の記事で書いたが
コーチングの現場ではコーチ自身が分析装置だから
コーチの目こそが命
コーチの目がポンコツだと印象分析もポンコツになる

「どこが悪いか」という問題点が分かっても
「なんでそうなってるのか」
という原因や背景は指導する競技のパフォーマンス構造が高度に理解できていないと
原因と結果を正確に関連づけることができない
どうしても原因や背景がわからない時に
コーチは「心」の問題にしてしまうこともある^^;

プログラムづくりにも独特の難しさがある
「借りてきたプログラム」も実際にやってみると
様々な問題が発生するもの
プログラムの目的や実施方法、指導内容に対する理解不足によって起こる問題
指導対象の現状と合っていないことによって起こる問題
結局は試行錯誤して指導対象にフィットさせていくしかない

スパイラルアップを何度も何度も忍耐強く回していくしかないのがコーチング

だからコーチングの思考サイクルに正解はあっても
実際の指導現場には正解がないのがコーチング

正課外教育のクラブ活動で育つのは生徒?学生?それとも教員?

教員コーチのつぶやき

散文の長文です^^;
中学校、高等学校、大学
かつてどのカテゴリーにも「教員コーチ」は多く
特別な報酬もないまま
ただ「好き」という理由だけで
祝日とか勤務時間外とかでも指導現場にいた
それは「自己犠牲」でもなんでもなく
ただの「好き」の延長線上
報酬なんてないわけだから
当然黒字なんてことはありえず
持ち出しの赤字である
「趣味」の世界といえば
持ち出しがあっても普通なのかもしれない
大学においても多くの「教員コーチ」がおり
授業がない日や土日にも大学の研究室には人がいた
助手さんでスポーツ指導に関わっていた人もいた
人がいればそこにはコミュニケーションが生まれ
あでもない、こうでもない
ああしよう、こうしよう
あれいいよね
どうやってるの
おしえてよ
いろんな議論が自然と生まれていた
それが「形のない」「自然発生的な」「仕組み」だった
そんな時代は過去のものとなり
全ては「タイパ」「コスパ」で量的に評価され
一つの評価尺度で成果が計られる形式知重視の世の中になり
「自然な議論を生み出すために人工的な仕組みが必要になる時代」になった
それでも議論の機会では主張がぶつかり合い
「正しさ」と「正しさ」の喧嘩が始まり
合意形成のコストはますます高くなっていく現実がある
今日は日曜日
練習のために大学に出てきているが
人に出会わない
それが良いことなのか悪いことなのか
私にはわからない
私自身当然家族に迷惑をかけていたことは事実
自分の価値観を勝手に家族に押し付けていたんだろう
価値観が180度転換した現代において
自身の思考と行動を反省することは多い
プロではないからこそ
甘えは生まれ
言い訳が準備されている
ぬるま湯の世界なのだろう
それでも
競技や種目や研究の専門領域は違えど
「スポーツを指導する」という1点において共通点があり
「新しい動きを指導する」
「今ある動きを修正する」
「思考スキル」
「人間論」
「組織論」
「リーダーシップ論」
「哲学」
スポーツ指導を取り巻く
ありとあらゆることについて自然と議論が生まれ
いろんな学びがそこにはあった
形式知以上の実践知があった
形式知を「知っている」だけでは
「評論家」にはなれても
現場は務まらないことなんて
誰もが体験上わかっていた
だから「知っていること」の量よりも
「できること」の量が重視され
「できること」の価値
「できる人」の価値
が当たり前のように評価されていた
「あれはおかしい」「こうすべきだ」
喧々諤諤の議論になることもあったが
それを理由に人間関係が壊れることはなく
議論後はまたいつもの関係に戻る
自分が持つ正しさの主張ではなく
「いいものはいい」「わるいものはわるい」だった
だから年齢の上下や立場の上下はあれど
「わかった」「わかりました」
「そうしよう」「そうしましょう」
という合意形成が自然にできていた
学校教育における正課外教育という場の中で
一番成長させてもらったのは
学生ではなく教員コーチである自分なのかもしれない
そんな時代はもう来ないのだろう
新しい時代のなかで
現場とは何か
仕事とは何か
教員とは何か
プロフェッショナルとは何か
出すべき成果とは何か
考えている間に
お昼休憩の時間は終わり
午後の練習の時間になった
また現場に出ていく自分がいる
「趣味の世界」と割り切り
「好きなことをやれる幸せ」を感じ
学生とともに成長の機会を大切にしたいと思う

自分の外側に正解を求め続ける旅に終わりは来ない

「外側の正解を求め続ける世界」 という記事がある コーチングをしていく上でもとても大事な考え方だと思う コーチングする自分自身にとっても プレイヤーにとっても inputしてもinputしても 「もっと他にinputすべきことがあるんじゃないか」 「自分が知っていることの他にもっ...