2025/03/05

正課外教育のクラブ活動で育つのは生徒?学生?それとも教員?

教員コーチのつぶやき

散文の長文です^^;
中学校、高等学校、大学
かつてどのカテゴリーにも「教員コーチ」は多く
特別な報酬もないまま
ただ「好き」という理由だけで
祝日とか勤務時間外とかでも指導現場にいた
それは「自己犠牲」でもなんでもなく
ただの「好き」の延長線上
報酬なんてないわけだから
当然黒字なんてことはありえず
持ち出しの赤字である
「趣味」の世界といえば
持ち出しがあっても普通なのかもしれない
大学においても多くの「教員コーチ」がおり
授業がない日や土日にも大学の研究室には人がいた
助手さんでスポーツ指導に関わっていた人もいた
人がいればそこにはコミュニケーションが生まれ
あでもない、こうでもない
ああしよう、こうしよう
あれいいよね
どうやってるの
おしえてよ
いろんな議論が自然と生まれていた
それが「形のない」「自然発生的な」「仕組み」だった
そんな時代は過去のものとなり
全ては「タイパ」「コスパ」で量的に評価され
一つの評価尺度で成果が計られる形式知重視の世の中になり
「自然な議論を生み出すために人工的な仕組みが必要になる時代」になった
それでも議論の機会では主張がぶつかり合い
「正しさ」と「正しさ」の喧嘩が始まり
合意形成のコストはますます高くなっていく現実がある
今日は日曜日
練習のために大学に出てきているが
人に出会わない
それが良いことなのか悪いことなのか
私にはわからない
私自身当然家族に迷惑をかけていたことは事実
自分の価値観を勝手に家族に押し付けていたんだろう
価値観が180度転換した現代において
自身の思考と行動を反省することは多い
プロではないからこそ
甘えは生まれ
言い訳が準備されている
ぬるま湯の世界なのだろう
それでも
競技や種目や研究の専門領域は違えど
「スポーツを指導する」という1点において共通点があり
「新しい動きを指導する」
「今ある動きを修正する」
「思考スキル」
「人間論」
「組織論」
「リーダーシップ論」
「哲学」
スポーツ指導を取り巻く
ありとあらゆることについて自然と議論が生まれ
いろんな学びがそこにはあった
形式知以上の実践知があった
形式知を「知っている」だけでは
「評論家」にはなれても
現場は務まらないことなんて
誰もが体験上わかっていた
だから「知っていること」の量よりも
「できること」の量が重視され
「できること」の価値
「できる人」の価値
が当たり前のように評価されていた
「あれはおかしい」「こうすべきだ」
喧々諤諤の議論になることもあったが
それを理由に人間関係が壊れることはなく
議論後はまたいつもの関係に戻る
自分が持つ正しさの主張ではなく
「いいものはいい」「わるいものはわるい」だった
だから年齢の上下や立場の上下はあれど
「わかった」「わかりました」
「そうしよう」「そうしましょう」
という合意形成が自然にできていた
学校教育における正課外教育という場の中で
一番成長させてもらったのは
学生ではなく教員コーチである自分なのかもしれない
そんな時代はもう来ないのだろう
新しい時代のなかで
現場とは何か
仕事とは何か
教員とは何か
プロフェッショナルとは何か
出すべき成果とは何か
考えている間に
お昼休憩の時間は終わり
午後の練習の時間になった
また現場に出ていく自分がいる
「趣味の世界」と割り切り
「好きなことをやれる幸せ」を感じ
学生とともに成長の機会を大切にしたいと思う

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